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column
2024年02月14日
合同会社エムアイティエス代表 水谷哲也
コンピュータはCPU(Central Processing Unit)がないと動きません。「インテル入ってる」とよく宣伝が流れていましたが、あのCPUです。CPU誕生の裏に日本人が存在し、また開発者の記念としてCPUに家紋が刻まれていることは、あまり知られていません。
100円ショップで電卓が買えますが、登場した頃、大卒の初任給が2万円という時代に80万円もしました。庶民が買える値段ではなく、計算といえばまだまだソロバンが主流。トモエ算盤がテレビCMをしていました。
電卓のサイズもレジスターほど大きく動かすのも一苦労です。やがてLSIで電卓が作られるようになり小型化、軽量化されます。価格が10万円ほどまで下がると企業への導入がすすみ市場が拡がります。
1960年代後半から1970年代前半にかけて電機メーカー、事務機メーカーなど50社以上が参入し、各社入り乱れて激烈な開発競争をしたことから、電卓戦争と呼ばれます。最終的には1972年に発売されたカシオの電卓「カシオミニ」によって電卓戦争は終わります。1万2800円という価格は驚きで、テレビでは「とかくこの世は計算さ 数と数とのからみ合い 答一発、カシオミニ」というコマーシャルが流れました。これが大ヒットし、発売後10か月で100万台売れます。
嶋正利という人物が東北大学を卒業後、ビジコンという会社に就職します。ビジコン社も電卓戦争に参入していました。当時の電卓はカスタムメイドのLSIで実現されていました。新しい機能を追加しようとするとLSIの回路構造を最初から設計しなおさなければなりません。そこで嶋氏は発想を変え、回路で機能を実現するのではなく、プログラムで機能を実現できないかと考えます。汎用的なLSIにソフトウェアを追加し機能を実現することで新機種の投入時間を短くできます。
嶋氏は渡米し、ノイスとムーアが1968年に設立したばかりのベンチャー企業に相談します。1969年頃、インテルは従業員200名ほどの小さな会社で、しかもメモリーに強い会社でした。ビジコン社との共同開発がすすみましたが、なかなかうまくいきません。苦労の末、嶋氏が論理設計を行い完成したのが4004という世界最初のCPUです。この時、嶋氏は若干27歳でした。
4004を電卓専用にしなかったことで汎用的に使うことができました。ビジコン社の依頼で作成したのでビジコン社が独占販売できましたが、経営が厳しかったビジコン社は4004の販売権をインテルに売ってしまいます。インテルは4004の将来性を的確に判断していました。これによってメモリーメーカーだったインテルがCPUメーカーに脱皮でき、やがてウィンテル時代の到来になります。ビジコン社の電卓と4004は上野にある国立科学博物館に展示されています。
仕事が一段落した嶋氏はビジコン社を辞めてリコーに転職していました。そこにインテルから誘いがきます。インテルは4004の後継として8080を開発していましたが、プロジェクトはうまくいっていませんでした。そこで嶋氏を招集して大改造を行い、8080を完成させます。開発者の記念として8080のチップ(初期セット)の端には嶋氏の家紋である「丸に三つ引き」が刻まれています。
それまでのコンピュータは研究所や企業などで使うのが当たり前で、とても個人が手を出せるものではありませんでした。ところが個人でも8080を買えば、基盤にメモリーなどをのせて個人でコンピュータを楽しめることになります。世界中でマイコンブームが巻き起こります。
日本ではNECが8080互換のCPUを搭載したトレーニングキットTK-80を開発して発売します。基盤むき出して、16進数で入力する0~9、A~Fのキーボードがついていました。モニターもないのでテレビにつないで楽しみました。扱うには大変な代物ですが、これが熱狂的に受け入れられ大ヒットします。TK-80は国立科学博物館の4004の隣に飾られています。
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